吉塚市場の歴史
「吉塚市場」との名称で呼ばれだしたのは、戦後、特に食料が不足している頃-昭和25年頃、魚屋2軒(松本・広方)それに八百屋1軒の3軒くらいでやっていたのが始まりです。
この時代よりお客様の来訪が多く、その後自然発生的に次々と店舗ができ、闇市の如くに広まりました。
今の道路は昔ながらのままで、当時から道は狭く、お客さまの往来でギュウギュウ詰めの様相を朝から夕刻まで眺められるほどに活気ある場所として栄えました。
昔、「とり善」のあった場所は、病院のレンガ塀が連なる交差点でしたが、この土地を買いレンガ塀を取り壊したのが昭和27年、4差路を取り囲む様にして暫時6店舗を建て上げたのが、吉塚市場の原型です。
かまぼこ屋、天ぷら屋、魚屋・・・食品を取り扱う店々が立ち並び、お客さまの往来も増し、現在の志免町や堅粕からのお客さまが集中して、自然発生的に商店が増え、住宅も店舗に改造して市場というものが形成されました。
昭和32年頃に福岡市の許可をとってアーケードを設け、それが今に残る佇まいとなっています。
時代の移り変わりとともに衰退する商店街ー
昭和の最盛期には150以上の店が軒を連ね、肩が触れ合うほど多くの買い物客で賑わいをみせていた吉塚市場。
しかしながら、近年では老朽化、店主の高齢化、後継者不足の問題、また近隣に大型商業施設が林立し、既存の店舗はいつしか30店舗まで減少しました。
吉塚市場はいつのまにか時代に取り残された一角となってしまったのですー
新たに始まった吉塚商店街の取り組み
そのような現状の中で、地域のためにも、市場のためにも、何か解決策はないか?
19年末頃から水面下で商店街再生へ向けての具体的な話し合いが始まりました。
それが【吉塚市場リトルアジアプロジェクト】です。着目したのは、近隣に多く住み、買い物に来る外国人の存在でした。
今、日本で暮らす外国の方々は、労働や消費を産み出す日本経済における大切な存在です。
しかしながら、文化の違いから生じるトラブルや誤解など、外国人居住者にとって日本は充分に住みやすい環境といえないのが現実です。
外国人居住者と目指す「共生と共修」
このプロジェクトでは吉塚市場が中心となり、「食」「繋がり」「安心」を通して、外国人居住者と地域の人との充実した暮らしを創生します。
外国人は、故郷に帰ったような安心感のなか日本の文化を知り、日本人は、海外の文化を理解しながら国際的な考え方を持つ。
そんな活気ある商店街再生の事業計画をまとめ、20年9月3日、経済産業省の「商店街活性化・観光消費創出事業」に採択されました。
そこからわずか3ヶ月間で、アジアに特化した飲食店の誘致、アーケードの改修や照明工事、公衆トイレの設置などを行い、12月1日、名称を「吉塚商店街」から、創業時の「吉塚市場」に改め、『吉塚市場リトルアジアマーケット』としてリニューアルオープンしたのでした。
< 食 >
複数の海外料理店新規オープン!
今回の再生事業では、外国人居住者が母国語で話せる居場所づくり、そして商店街の活気も取り戻そうと、空き店舗へ「アジア」に特化した料理店を誘致しました。
既存のベトナム食材店に加え、ミャンマー、タイ、ベトナム、カンボジア(閉店)、中国、韓国などの魅力的で実力派揃いの本場アジア料理店を誘致しました。
< 繋がり >
文化交流イベントを通じて目指す、「共生と共修」。
吉塚市場では、多目的スペース「アジアンプラザ」を開設し、今後は様々な国の文化にスポットを当てた交流イベントを開催予定。
積極的に文化交流を推進する中でお互いの文化を学び合い、多様な地域コミュニティの創出を目指します。
< 安 心 >
ミャンマーから黄金のお釈迦様がやってきた!
2021年3月13日、吉塚市場内に新たに『吉塚御堂』を建立。ミャンマーより全長約2m、400kgのお釈迦様をお迎えしました。
今後は、外国人仏教徒の心の支えとなる場所、心のふるさとになっていくことでしょう。
吉塚市場の新しい挑戦にご期待ください。
アクセス
吉塚市場事務局 電話番号:092-409-3209